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新年明けましておめでとうございます。

2026.01.01

新年、明けまして おめでとうございます。

 どうにか63回目の正月を迎えられそうです。ま、現状、元旦まで22日と12時間あるので、迎えられているかどうかはわからないのですが。そう考えると、新年の挨拶は自らにしている気にもなります。「予定通り新年を迎えられたぞ、おめでとう」と。

 そうなのです。予定しているんですね、何かと色々。基本、死ぬと思っていない私がいます。「ま、いつかは死ぬんだろうけど、今じゃないでしょ」と思っている。今じゃない、ってことは、いつでもない、ということです。現実の私の頭の中では、死は無いに等しいようです。

 「生」・「死」は対です。一枚の紙の裏表のようなものです。裏だけ、表だけでは存在しません。ということは、「死」が無い私には「生」も存在しないわけであり、「生」というものをこの身に感じるとき、そこには「死」というまがいもない命の真実が存在しています。

 昨年、父(初代住職)の十七回忌・母(初代坊守)の一周忌を勤修いたしました。二人二様に「死」を通して「生」の大事を16年前・1年前に示し説いてくださいました。でも、その時の自らへの問は、ものの見事に忘れ去られて、現状をただ流されて生きています。

 「どうしましょう?」

と、父母に問うたなら、「それでいいんじゃない」と笑ってくれそうです。

 お釈迦さまがお気づきになられた真理は、一切は意味がない、ということだとも言われています。意味付けをすることによって価値というものを欲しがるのが人間ですが、意味付けできるものは尊くて、その意味によって「善悪」「上下」が定まるのであれば、それはその意味が尊いというだけであり、そのものが尊いことにはならないのです。その「意味」は「意味づけ」する人間の都合でしかなく、「意味づけする人間」が自分よりも、立場や力や年齢などが強いか弱いかで「意味」の価値の上下もきまってしまうのです。そして、時代や状況でその「意味」は常に変化します。そのようにあやふやでいい加減なものが私たちが後生大事にしている「意味」・「価値」というもののようです。

 意味がない、というのは、一切はただそこにあることにおいて尊い、という「そのもの」を無条件に引き受けるということでしょう。だから、「生死」を大事に受け止められるか否か、というのは個々人の人生を歩む上ではとても大事であり、生きていくうえでの指標でもあるのですが、仏さまからすれば、どのように生きていようが「そんなの関係ない。おまえは尊い。だから、なんも心配することなし」ということでしょう。

 無意味に、無条件で私を引き受けてくださるのが「南無阿弥陀仏」です。「南無阿弥陀仏」は仏さまからの本当の願い(本願)です。いつでも、どこでも、だれでも、どのような状況でも、そのときのあなたを完全肯定させてもらいます、という召喚の声が私の口を伝ってわたし自身に呼びかけてくるのです。ですから、昔から声に出してお念仏をしましょう、と言われてきたのです。今年も仏さまからの大丈夫だよという「南無阿弥陀仏」の声を聞く日々を過ごしてまいりましょう。           副住職

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