人間は本質的に成長していく中で、自分を支える根本感情を「被害者意識」に売り渡してしまう。
それは、どこからくるかと言えば、「死ぬために誕生した」という根源的苦のところに要因がある。
武田定光
わたしだけが
おれだけが
どうしてこんな辛い目に合わねばならないんだ!
そんな心はだれにでもあるとおもう。
それを引き摺ると生活はどんどんつまらなくなる。
ま、そういう生活を楽しんでいる風もいるが。
クレーマーといわれる人の気持がよくわからん。
あんな事していて気持がその時は一瞬「ザマァ見ろ!」と晴れたとしても、また次のイラつきムカつきに自ら突入するだけだし、自分で自分の首を絞めて喜んでいるだけだろ。
そんな風に感じるが、でも、自分の中にも間違いなくクレーマーに足る根性があることに気づくと、愕然とする。
情けなくもなる。
昨日の投稿「疑善者たれ」にも書かせてもらったとおり、相当、わたしにはクレーマーの資質がありそうだ。
そんな気持ちで生きていても、生活していても意味がないし損なだけだ、と言下に断じる事は簡単だろうが、そんな気持は自分でどうこうできるほど、コントロールできるほど容易いものではない。
自分に不都合があれば、容易に「犠牲者」になる。
状況や環境や持ち物に自分が振り回されている証拠だ。
犠牲者であることを誇っている自分が見えると
「他人事やな」
という祖母の声が聞こえてくる。
あちゃ〜。。。である。
(幽霊とかじゃないですよ😅
ご存じない方は→「他人事」)
結局どこまでいっても
いま・ここ・わたしを満足できない。
隣の芝生が青く見える。
そんな自分が悩ましい、ならまだいいが
わたしの場合、たちが悪いのが
そんなわたしを愛おしく思える自分がいちゃったりするから厄介だ😅
「こんなにつらいのに頑張っているなぁ〜〜〜💕」て。
やばいよね。
自分戊ことが好きでどうしようもないというのともまた違う。
自分をどこかで、誇るというか、甘やかすというか、逃げ道がないと怖くて生きられないんだと思う。
臆病者なだけだ。
人間は
「死」という究極の被害を必ず受ける。
そこに至るまでに
老いる、病むという
「なんで!」が必ずあるし
愛する人と別れにゃならん
怨めしい憎たらしい奴と一緒に生きていかにゃならん
思い通りにどうもならん
人間なんて、らららららららら〜
て具合に「なんでオレだけが!」が、「どうしてこんなに辛いんだ!」が必ず付随してくる。
いつも同じことにしか至らないのだが
結局は
「あたり前」を「有り得ない」として受け入れて
「有りえ難い」を「あたり前」として受け入れてしまう
そんな矛盾が人間の被害者意識を作り出す。
てことは
「被害者意識」は人間として当たり前?
また、思考の渦に飲まれて溺れそうになっている😅
ま、被害者意識が見えたら要注意だ。
暴走するから。
本当にオレは被害者なのか?
それくらいの問いを持つようにはしないとな。
東日本大震災のおり
東京都民がこぞって被害者意識に襲われて
水やガソリンの買い占めに走った光景は酷いもんだった。
さすがにわたしでさえ
「ばかじゃねか?被害者ぶってんじゃねぇよ!」
と、そこらじゅうで言いまくっていた。
でも、
そのおりのわたしには
「わたしはそんなことをしない正しい自分です」
という驕りと、他者への侮蔑と軽蔑があった。
そんなもん同士が出合えば争いになることは必定。
言い訳を許さない態度で、他を排斥する。
そこにあるのは被害者意識ではないにせよ、絶対正義のクレーマー。
被害者意識も
それを許容できないとする意識も
なんのことはない
一切自分を疑わない驕りから出てくる。
どちらもの意識も
わたしの中には間違いなくある。