〈生〉に酔ったような日常的な惰性、怠情を超える〈死〉の自覚を契機として、本当の命を知れ。
清冽な水のような流れ、朝ごとに新しい命の恵みに目覚めて生きよ。
神戸和麿
上記の「今日の言葉」は、わたしの大学時代のゼミの教授、いわば恩師が書いた本に載っていた言葉だ。
それで、これを選んだわたし自身が〈生〉をどうしても「ナマ」と読めてしまう😅
「ナマ」飲んでたら酔っちゃたよ〜。
って読めてしまう。
やばい。
そんな自分が、だめだこりゃ、と思い、それで読み返すと、痛く刺さる言葉なんだな。
完全に、おまえのために書いたんだ!と言われている気がする。
日常を惰性と怠情でしか生きてなくて、「死」なんざ見つめてもいないどころか、自分は死なないと思っている。
知識でしか死を捉えていないからこそ、〈生〉がいいかげんにある。
そんなんだから「ナマ」と読んでしまう。
わたしの名前は「智流」という。
ま、親がつけた意味としては、センセの言葉を借りれば、「清冽な水のような流れ、清冽な湧き出る智慧に、常に、一生を生きてもらいたい」という願いのが込められている。
スマン、オヤジ殿。
濁りまくって、生に酔っている、いや、生がなくとも酔っている、そんなわたしで申し訳ない。
酒は、基本、さほどスキなわけではない。
強くもない。
それこそ、酒を飲むときでさえ、本気ではなく、〈惰性〉だ。
ノリと雰囲気だけで飲んでいるようなもんだ。
酔っていても、どこかで冷めている、酔いきれない自分もいる。
全て、一事が万事、惰性と怠惰な自分だ。
そんなわたしが新型コロナのおかげで、朝、新たな〈生〉を感じたと思える経験を2回ほどさせてもらえた。
別に、何かがあったわけでも、罹患したわけでもない。
朝、眼が冷めた刹那、
「あ。」と思えた。
後付で説明的な言葉で言えば
「あ、昨日眠りに落ちて、今、無事に死なないで目が覚めた」
というような気づき。
新型コロナ禍が騒がれだして、緊急事態宣言が出るちょい前の頃。
自分は大丈夫だ、そんな怖がっていない、と思いながらもどこかでビビっていたのだろう。
目が覚めて、その直後感じたのは、
「あ、良かった」というような安堵感ではなく、恐怖だった。
今まで生きていてあたり前に目が覚めていたが、あたり前ではなかった。
人様にはそんなようなことを解った風で話をしていたが、自分ではちっとも認識していなかった。
「昨夜、眠りに落ち、そのまま死んでいてもなんら不思議ではない」
そんな恐怖に襲われた。
そして。。。
あたり前のように、二度寝に落ちて、その後起きた時はもう何もなかったようにいつもの朝を過ごしていた。
まぁ、人生でそんなことを感じられるのは、正直、自分のようななめきった生き方をしている人間にはないかもしれない、あるとしても相当先のことだろう、そんなふうに思っていたが、予定よりも相当早く味わうことができた。
だからといって、なにか変わるかというと、なんも変わらない、変わっていない。
結局は、わたしにとって〈死〉は、また理屈・知識でしかなく、幻想でしかなくなってしまっている。
ただ一つだけわかったことがある。
清冽な生を感じることは、意図してできることではなく、与えられることだということ。
その時に、できれば、今度は、恐怖ではなく、感動できればと思っている。