「過去は未来の鏡なり」
人間の未来を見るためには、いままでやってきた過去のことを振り返ればよい。
振り返ることも怖いものだから、未来には素晴しい社会や世界が待っているのだと幻想したいのだろう。
武田定光
過去をちゃんと見ることは大事だ。
そこには必ず、これからなそうとしていることへの危険性や間違いがある。
いましている、間違いも顕にされる。
そこに立つことで互いに分かり合える。
いや、分かり合おうという姿勢が持てる。
対話ができる。
相手のやらかしている事はどうでもいいんだ、この場合は。
先ずは、己がやらかしてきたことを見るんだ。
そうでないと、ついつい被害者ヅラしてしまう。
それほど人間の性根というものは軟弱にできている。
原爆を落としたことを正当化して、そこに反省はないと言い張るしかない米国は、原爆反対と言えない。戦争反対と言えない国になってしまった。
じゃ日本は?
東アジアの植民地化に対して認めようとしないがため、侵略戦争もなかったこと、南京大虐殺もなかったこと、徴用工問題や従軍慰安婦問題は軍の関与は一切なく、日本国家の関与もなく、韓国・北朝鮮が独自にしたことと言い張る始末。
当時の朝鮮半島(韓国と北朝鮮)は日本だった。そこに住む方々は無理やり日本人名をつけることを強要され、日本語以外を話すことを禁じられていた。国籍も日本だった。
そして、無理やり本土につれてこられて働かされた。
ところが敗戦と同時に、彼らは解放という名の下、ほっぽりだされ、日本国からの保証は何もされなかった。
送り込んだのは韓国人だ!というが、その人も当時は日本人だ、望もうが望むまいが。
南京の大虐殺は、日本が中国本土でやった非人道的な行為のほんの一部でしかない。
上海から日本軍は約300kmを進撃している。
「あ。日本の方々だ。どうぞここでお休みになってください。お酒もお食事も用意しております。どうぞどうぞお気をつけていってらしてください」
って、通してくれるわけもなく、食い物や女性や命や欲しい物を略奪して進んでいたことは考えないでも分かる話だ。
見せしめ、度胸付で、住民を縛り付けて銃剣などで刺し殺すようなこともしていた。
このことは、三笠宮崇仁氏の証言やドキュメント映画「蟻の兵隊」でも明らかにされている。
こうした歴史もなかったこととして、日本は素晴しい、日本人はいい人ばかり、日本人は優秀だ、美しい国日本!なんて浮かれているから、見る未来も暗澹たるものでしかなく、いつ戦争に巻き込まれるか分からんとオロついている。
未来に素晴しい社会や世界を見ることすらもできなくなって、いましているのはとても日本人らしい差別、他者を貶めて、低く見積もって、自分たちがマシだと思いたい。幻想すらもそんな寂しいものと成り果てているのが日本の現状だ。
国の政策も強者に媚び、弱者を排斥する。
国民もそれに倣おうという社会じゃ、あまりにも情けない。
ちゃんと歴史を学ぼう。
過去をできるだけきちっとさらっていこう。
そこには必ず、先への指針がある。
あ!このままじゃ争いになるだけだな。
あ!こちらに進んだほうが良いな。
あ!傷つけてしまうな。
あ!こうすれば一緒にやっていけるかも。
そんなヒントはかならず過去にある。
とうぜん昔は良かったなんて懐古主義はそこにはいらない。
今を反省し、未来を見るために必要な過去は、あくまでやらかして恥じ入るような過去だ。
古きを温ね新しきを知る
清志郎もそう歌っていたなぁ。
立ち止って
振り返って
足もと見つめて
深呼吸して
行く先を再確認してみよう。
間違うかもしれない
そうしたら
違う道を行く
着た道を一度戻る
行く先を変える
いくらでも方法はある。
今からでも遅くない。