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空過

ブログ2020.10.16

人は物事が移り行くことに耐えられないのです。
積み上げてきたことの意味が失われてしまう。
いわば空しさです。
これが人間の苦しみの大本なのです。
             一楽真

若い頃は
年長の人が
「昔はこうこうだったのに、最近はこんなになっちまって、情けねぇ」
みたいな言葉を聞くと
「うっせぇ、ジジィ!オノレの回顧に酔って沈んで浮かんでくな!」
とか思っていたが、
いまでは自分が「昔は・・・。」って沈みそうになっている。

だいたい
自分がいいと感じている昔に舞い戻ったら、今さら絶対に暮らせないだろう、不便で。
携帯もない、パソコンもない、カーナビもない、コンビニもない、そんな世界。
隣近所の付き合いが濃密で、どこの誰がどうしたかすぐにバレる世界。
(これは自分のような人見知り小僧にとっては地獄だろう、今さら😅)

昔に恋い焦がれるようにだけはなりたくねぇもんだぜ!なんてイキっていたが、ちゃんと恋い焦がれるようになる。

確かに若くて元気で無意味に無駄に自信を持てていた頃にというのもあるが、その時代の社会であったり環境に恋い焦がれてしまう。

もう15年くらい前、映画で「ALWAYS 三丁目の夕日」が大ヒットをした際、高度成長期突入前、東京オリンピックの前、そんな時代に憧れる世代の人々が多く出たという。
その頃、ホーチミン(ベトナム)を訪れる人が多いと聞いた。
昭和30年代後半の東京、「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界がバーチャルではなくそこにあったという。
そして、中には、たまらなくなって、会社も日本の住居も捨て、退職金と家を売った金を持ってホーチミンに移り住んだ人もいた。
その人々の大半が、半年も保たずに日本に帰ってきたと聞いた。

もう、あんな不便な状況、汚い(現代の潔癖症系日本人からして)状況には耐えられない、とまぁ、そんなことだったようだ。

通り過ぎていった思いでってやつは、勝手に綺麗に塗り替えてしまうのが人間の脳ミソのようだ。

で、自分はというと、やっぱ、どこかに、あの頃は良かった、はある。

冷静に考えてよかった面も確かにある。

でも今さら、そこに戻れるかというと、戻ることはできない。

現代の殺伐とした社会の有り様は、相当、これから互いに分かり合う話し合いを積み重ねないと改善はできない。

ただ、その苦労をやり遂げれば、その先には、自分が感じている昔のゆるくて良かった点よりも、もっといい加減でゆるい世界が造れる可能性はある。
それが、自分が生きているうちには無理かもだが、そんな世界が創造されることが楽しみではある。

先日、テレビ「アウト×デラックス」に木下百花さんというシンガーソングライターが出演していたが、彼女が持っている世界観は、全部が全部ではないが、これからの社会の新しいゆるさ、自由観を感じられた。

性別を超えたというよりも、性という観念、「性別」という言葉すらも無いことのような有り様は共感を持てた。

社会が変わっていく。

そうするとなんだか自分が取り残されていくような錯覚に陥る。

必死にしがみつくか、オレはそんなの関係ないねとイキがるか、表現は様々だが、社会の流れは自分で気づく気づかない関係なく自分を濁流に飲み込んでいる。

抗うことも大事。
でも、必死に抗っていても濁流にしっかり流されている事実は忘れないようにすることだ。

無駄な努力はせずに流されてやろう、でもいい。
でも、気が付かないだけで実は濁流の中でもがき苦しんでいる、という事実は把握していくべくだ。

回顧するのもいい。
でも、鯉の滝登りよろしく、鮭の川登りよろしく過去へ戻れる、そんなことはないと思い知っておくことだ。

空しく過ぎるというのは、寂しさや、やるせなさとは違う。
いま「空しく過ぎている」というその事実にすら気づけないという世界だ。

いま、自分は空過に生きているのか。

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