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狭山事件ってご存知ですか?

ブログ2021.01.29

57年8ヶ月前、1963年5月1日に女子高校生誘拐殺人事件が起きた。
いわゆる「狭山事件」だ。
逮捕され、無期懲役(一審は死刑)に処せられたのは当時24才の青年 石川一雄さん。
日本の司法・検察・警察が、全く近代的ではないことを、いま現在もまざまざと識らされる冤罪事件だ。

そして未だ、再審すら行われていない。

当時の判決理由となった証拠は、全てが警察と検察の捏造であることが明らかになってきている。

↑↑↑↑↑↑↑↑↑上記画像をクリックでYoutube↑↑↑↑↑↑↑↑↑
「ザ・ノンフィクション特別編 新狭山事件──隠された真実」

それでも、再審を拒む司法と検察。
彼らは、何を守ろうとしているのか。
司法と検察のプライドのためなら冤罪も致し方ないというのか。

現在、3回目の再審請求をしている。
検察が当時の証拠開示を拒み、出し渋る中、それでも、240点を超える無罪を立証する証拠が弁護側から提出されている。
また、当時の警察での誘導尋問、脅迫的な尋問のテープも出てきている。

先日、最高裁において、東京高裁に差し戻された袴田巌さんの冤罪事件同様、狭山事件での石川一雄さんへの不当な逮捕、取り調べ、起訴、判決は、日本の警察・検察・司法の歪んだ稚拙さによる。

「狭山事件」はドラマどころではない、ミステリー小説でもいくらなんでもそこれでは稚拙すぎるだろう、そんな有り得ない冤罪事件だ。

是非、上記のYouTubeなどをみて、関心を持っていただけたらと思う。

なぜなら、わたしは安心して生活がしたいからだ。
道を安心して歩きたい。
自分の意見を安心して述べ、反対意見も安心して聞け、互いが安心して対話ができる社会で暮らしたい。
権力に逆らえばいつでもオマエみたいな小市民は投獄することができる。殺すこともできる。罪は簡単に捏造できる、そんな社会では息苦しくて嫌なんだ。

そのためには、わたしが、安心して生活が送ることができる社会を作るためにも、冤罪と思われる事件の再審の扉を開けることをより容易にしていく必要もある。

えん罪は、国家による最大の人権侵害の一つである。当連合会は、これまで数多くの再審事件支援に取り組んでおり、近年では、足利事件、布川事件、東京電力女性社員殺害事件、東住吉事件、松橋事件で、それぞれ再審無罪判決を勝ち取ってきた。また、湖東事件、日野町事件では、再審開始決定という成果を上げ、湖東事件は再審開始が確定している。
 
このような再審事件の動向が全国的に報道されたこともあり、再審やえん罪被害に対する市民の関心は、これまでになく高まっている。
 
しかし、我が国においては、再審は、「開かずの扉」と言われるほど、そのハードルが高く、えん罪被害者の救済が遅々として進まない状況にある。そして、それは各事件固有の問題ではなく、現在の再審制度が抱える制度的・構造的な問題である。

日本弁護士連合会「えん罪被害者を一刻も早く救済するために再審法の速やかな改正を求める決議」より抜粋

全文 https://www.nichibenren.or.jp/document/civil_liberties/year/2019/2019_3.html

間違いはある。
人間のすることだ、

間違えた司法や検察や警察を寛大に許せというわけではない。
ただ、彼らが、ミスをミスとして認めることのできる社会を構築していく必要はある。

悪意を持っているものだけが罪を犯すわけではない。
明確な悪意を持って否応なく罪を犯すものにも、理由・事由・状況がある。
敢えてミスをする人間も少ない。
ミスであるとわかりながらも、それをせざるを得なくなった人間にとって、ミスはその瞬間ミスではなくなり、それこそが正当となる。
そこから抜け出せなくなる。

これは、決して他人事、犯罪者やそれを取り締まり、処罰するものだけの話ではない。
わたし自身が、いつでもどちらにでもなり得る。

いまの日本でのことだ。

いつでも
犯罪者にもなり得る。
それほどいまの日本社会は、市民同士の対立も酷く、対話よりも討論争論を良しとし、偏向的である反面、無関心でもある。
情報をフカヨミすることもなく、ただ鵜呑みにする。
そして、強いものが正しく、弱者は悪である、そんな空気が蔓延している。

いつでも
糾弾者となり、正義の使徒となり、弱者を裁く。
それも無責任に。
情報を鵜呑みにした人間は、その場の感情だけで、情報の精査もせず、自身の感情や読み込み方への疑念も持たず、ストレスを発散するがためだけにしか思えないようなヒステリックな声を上げる。
傷つけることを厭わず、傷つけたことを見ず、ダダ漏れの無責任な感情を恥じることもない。

そんなわたしはちょっとしたきっかけで、意図することもなく現れる。

狭山事件も、現在の司法で必死に組織のメンツだけのために働く人々も、他の多くの事件や事故も、決して特異なことではなく、自分自身もそこにあればそうする可能性があることなんだ。

被害者や被害者家族の気持ちが解る、とか、加害者や加害者家族の心情がわかる、そんなのわかろうはずもない。
そんな安直なものではない。

だからこそ、他人事ではなく自分事として考えることしかできない。

いいよ、

「おれは、同じ立場になってもそんなことは絶対にしない自信がある」

でも。

否定はしない、その心情は。
一人称で言い切るのであれば、おれは、わたしは、と。

人間は、とか、日本人は、とか、常識では、なんて他人事、空事でないのであれば。

そこには、自分に対する問いかけが必ず生まれるから。

わたしは状況に飲まれていないのか。
わたしは情報に飲み込まれていないのか。
わたしは感情に支配されていないのか。
わたしは組織のメリットのため人間を捨てていないのか、

よくよく気を付けて活きたい。

組織は時として、信じられないほどに冷酷で残虐なことを実践する。
このとき組織内でそのメカニズムに加担した人たちは、まさしく親鸞が指摘した「さるべき業縁の催さば、いかなる振舞もすべし」人たちだ。

               森達也

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