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差別は森にあるのではない、人の間にある。

ブログ2021.02.13

独りのすくいとか独りの喜びは本当はありえないんです。
人を救う事は、自分が救われる事だし、自分が救われる事はみんなが救われることなのだと。
私たちはそれが別物だと思っているけど、本当は一緒なのです。
救う者と救われる者という境界は、私が勝手に引いたもので、本当は存在しないのです。

             瓜生崇

森喜朗元首相が女性蔑視の発言をしたことが問題になっている。

ただ、森喜朗は首相時代「神の国発言」をしたくらいの優生思想者だ。
わたしは、彼がああした差別発言をしたことに対してさして驚きはない。

「またか」という感じだ、正直。

ここのところ、前首相であった安倍晋三氏にしても、麻生太郎副総理にしても、差別発言を連発しまくりだったが、何故かこの国ではさして問題とならない。

前言撤回、議事録削除、とかいうなんかしれないが、それすれば言わなかったことにできるという魔法が政治の世界や官僚の世界では通用するらしい。

野党も率先して、撤回しろ、とか、議事録から削除しろ、とは言うが、撤回では済まされない!公の場での失言や差別発言、人権侵害発言は議事録に残して、国会の、国政の恥として未来永劫伝えていくべきだ!、とは言わない。
そりゃ言えない。
ブーメランで、自分がやばくなるのは困るから、予防線を貼っているのだろう。

ともかく、彼らだけを攻めても、例えば森喜朗が公の場からいなくなったとしても、安倍晋三が、麻生太郎が議員辞職をしたとしても、なんの解決にもならない。
なぜなら、いくらでも彼らの跡継ぎがいるからだ。

思想的に腐れているのが日本という国だ、悲しいことに。
だから、そこで生まれ育ってきたわたしも腐れていることは、自覚はないが、確実であろう。

森喜朗・安倍晋三・麻生太郎といった優生思想の代表者だけの問題ではなく、日本の作り出している社会自体が優生思想が根底にある。

現状でも、その優生思想のおこぼれを欲しがるかのように、権力を持つ集団に群れて、そこにいることで自らも権力者の一員であるかのごとく、日本人・愛国心そんな言葉を冠に弱者を叩く人間が溢れている。

日本で産まれ、日本国籍を持ち、男である、それだけで先ずは、同じところで産まれても、国籍が日本でなく、女性である人よりも相当に優位になるのが、悲しいかなこの国のおかしな現状だ。

そりゃ、最終的には、理想としては、ある年のある会社の新入社員が、たまたま全員女性であろうが性的少数者(LGBTQ)であったり男であったり、日本国籍者であったり韓国籍者であったりベトナム国籍者であったりしようが、一切問題なし、とお互いに思える、一番その会社が必要とした人を厳正してえらんだらそうなった、と皆が信用し安心して雇用を任せられるような社会になればそれに越したことはない。

いちいち男性・女性の比率を同じにして、あと、当然、性的マイノリティの方々を外すようなことのないように!なんて上から縛られなくてもいいような社会になればな、と願う。

だが、そこに辿り着くには、まずは色々試して、いろいろな人が参画して、失敗は成功の素を承知でやっていくことが寛容だと思う。

女性が、マイノリティが、なんとかしろ!なんて声を上げる必要がない社会はどうやったら作れるのかだ。

で、思うのは、日本人てのは、制度とか、法律にとても弱い。
というか、上が決めてくれないと何もできない大人がとても多くて、その決まり事をみんな右向け右でやることに喜びを覚える人がとてつもなく多いということだ。

だから、ムカつくけどお上に頼るしかないところがある。

法律で縛られないと、命令されないと、罰則がないとできないってのもどうかとは思うが、いたしかたない。

まずは日本において人権侵害がある、差別があることを政府が、国が認める必要があると思う。

この国の住民の多くは、政府の、国の仰せに従うことを望み、命令されることを望んでいる。自らの頭で考える、互いに話し合って悩み合うことを嫌っている。

政府が、素直に、人権保護法・差別禁止法を取り入れることで、悲しいかな、ようやく差別や人権というコトバに反応し、スイッチが入るという大人が多数を占めているのも現実だ。

それでようやく民主主義になるためのスタートラインの一歩手前まで立つことができる。

間違ってはいけない。

日本は有史以来、一度たりとも、一瞬たりとも、民主主義の国になったことはない。

常に封建主義。

だから、国は人権保護法や差別禁止法なんてものは作ろうとしない。

だって、そんなもん作っちまったら、本当に民主主義になっちゃうもん、
お上が神でいられなくなっちまう。

だから厄介なんだな。

国は、日本には差別はない、人権侵害はない、とひたすら言い続けている。

これは困りもんだ。

早いとこ、人権侵害も差別もふつうにあります、と認められる政治家を我々が育てにゃな。

そのほうがみんなが、民衆もだけど、政治家も、実は楽しく、穏やかで、安らぐ社会になるんだよ、ってことを哀れな、ふんぞり返って、神の座につくことが安心だと思いこんで、そこから降りれなくなって、おろついている政治家や官僚を梯子を掛けて降ろしてあげるのも優しさだと思う。

ここまで他人事のように愚痴ってきたが、実は自分の問題なんだな。

自分もなにか事が起きる、思うようにいかないと、女はよ、とか、わけぇ奴はよ、とか、年寄りはよ、とか、官僚はよ、とか、政治家はよ、とか、カテゴリーで差別し、その人物そのものを見ないことがしょっちゅうある。

気に入らないAが女性だったら、女性全体がそうであるかのように思ってしまうことがある。

気に入らないBが違う宗教の人間だと、その宗教全体がそうであるかのように思い込んでしまう。

最近の20代はこうだ!と、20代の人となんてほとんど触れ合ったことも語り合ったこともないのに、勝手な嵌め込みをする。

その逆もある。

女性であるだけで、その人をこうだと決める。
なになに教の信者であると言うだけでこうだと決める。
若いというだけでこうだと決める。

そんなことも儘ある。

何しろ、昭和の、高度成長期に育ち、バブル時代に青春してきた、おもいっきり昭和の、日本の、優生思想にまみれて生きて、育まれてきたジジイだ。

日本を応援する。

日本を自慢する。

日本人は優れているを叫んできた世代だ。

染み込んじゃっているから抜けないよ、悲しいけど。

でもね、
何かの技術で、何かの業績で、何かの発明で、何かの成績で、日本の人が関わっていたり、日本の人が騒がれたり、世界中で尊敬の念を持たれたり、栄誉に輝いたとしても、それは日本人だからではなくてその人々の努力からなる業績だし、その人はオレではない。
その業績とオレは関係ない。

誇ってる自分が恥ずかしいと思うようにはなれた。

いまでも、日本を応援しちゃうよ。

なんかのスポーツの仕合で、
外国対日本だったら、大概は日本を応援しちゃうし、オールジャパン対東京選抜だったら東京選抜、東京選抜対出身学校だったら出身学校、出身学校対親友チームだったら親友チームを応援しちゃうよ。

そりゃ、身近な方を応援しちゃうのは当り前だと思う。

でもね、日本がオレじゃないし、オレが日本じゃない。
親友がオレなわけではないし、オレがその親友なわけでもない。

繋がりは当然ある。

でも繋がりは、いえば全てとある。
知らない国の知らない人とも、知らない虫だ魚とも。

目に見える、わかりやすい繋がりにどうしても固執してしまうのは致し方がない。

繋がりを大事にするのであれば、全てを大事にしたいと思え。

繋がりなんて関係ない!と思っているのであれば、ビビらずに繋がりを見ろ。

一切は無関係なことではない。

森喜朗の女性蔑視は、日本の社会が抱えている差別・人権侵害の一部だ。
わたしの中の女性蔑視をここで感じなければ、ただの傍観者で終われば、わたしも森喜朗と変わらない。

この差別事象を他人事で、森喜朗一人の罪で終わらせてしまう、そんな浅はかに考えている以上は、日本の社会が民主主義になることはない。

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