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「いち」

ブログ2021.02.26

もともと、大地は誰かが所有できるものではない。
それを人間は、傲慢にも「自分たちのもの」であるかの如く争い合う。
地球に線引をしてお互いの領土を争っている。
まったく愚かな争いをしている。

            武田定光

今朝、家を出る際に、
「25日か・・・今月も終わりだな」
と、思って、いままで何度同じことを考えただろう、
「なんで2月だけ28日までなんだ?365日。12で割って30と余り5・・・てことはだ、30日の月を7,31日の月を5にすりゃにいいんだよな。いま、31日まである月を30日までにして、残りの月を31日までにすりゃ、スッキリすんのにな」
と、自分勝手なスッキリを頭の中でつぶやいてた。

で、バカだな、と、呆れてた。

まず、12ヶ月に限定しているところで、固定観念から一歩も出られていない。
時間という観念から否定しだすと、もう頭がいくつあっても足りないので、そこは許すとして、一年は周期、一日は日の出から日没を中心として、それくらいまでは許そう。
ただ、なぜに、一年を12で割らにゃならんのだ?
そこまですら頭が回っていない。
月という観念を採用するにしても、一年を5ヶ月にすりゃ、全部の月が73日と同じになるし、そうすればいいじゃん、なんて考えは出てこない。
こうして書いていても、
ひと月73日は長すぎだろう。ひと月5日も短すぎるし、しょっちゅう月替りでは月替わりメニューを考える人が大変だぜ。
こんな思いが湧いている。
30日、一週間に慣らされた頭から抜けられないってことだ。

ま、一年365日
12ヶ月。
一週間7日。
一日24時間。
一時間60分。
一分60秒

これからは抜け出せそうもない。
だから、2月は28日(or29日)でもしようがないな。

だいたい数というもの自体がいい加減なものだしな。

勝手にメートルとか、フィートとか作っちゃって、それで長さや広さを量って、長いだ短いだ、広いだ狭いだを言っている。

まだあるていど世界基準みたいな単位がついていれば、ギリギリ同じような感覚を共有できるかもだが、単位なしでは大きさも長さも体積も、まったく違う。

人間が「1」
大人を思い浮かべる人、子供を思い浮かべる人、太った人、痩せた人。
まったく違う「1」

「1」歩
20cmの「1」
50cmの「1」
70cmの「1」

東京駅から「1」駅
有楽町・大手町
品川
・・・東京駅からは新幹線でもそんな変わらない距離で停まるようになったので却下。
京都駅から「1」駅
五条
東福寺
山科
名古屋
新大阪

既存の、量りやすい1でも相当みんなバラバラになる。

「金が必要なんだ。。。頼む。貸してくれ🙏」
「いくら必要なんだよ」
「こ、こ、これだけ・・・貸してもらえないか・・・」
指を3本立てる。
「そんなんでいいのか?」
「こ、こ、これだけあればなんとかなるんだ、頼む🙏」
「わかった。まってろ」
「助かるよ😂」
金を持って登場。
「期限はいつでもいいから、頑張れよ」
「?????あの・・・???」
「どうした?」
「30万でいいのですけど」
300万の札束がそこには出ていた。

ま、ドラマや小説なんかでよくあるシチュエーションだ。

年収、財産、動かせる予算の違いで、立てた指の単位も変わる。

数字ってもんもいい加減なもんだ。

でもそれがないと、困ってしまう。
それを頼りに社会も自分も動いているし、それを使って互いの距離を測っていたり、相手を、物を、事象を量っている。

数に縛られてんなぁ。。。

これは数に限らない。

言葉こそが一番の縛りであり、一番の共通観念であり、一番の勘違いであり、一番の妄想であるのだな。

でもやっぱりそれがないと困ってしまう。

それを頼りのものを考え、考えを形作り、それを駆使して同じ形のものを相手にそのまま渡そうとする。

じゃぁ、言葉が通じなければ、まったく通じ合えないのかというと、そんなこともない。

どこに共通項を置くかを、どうやってわかり合えるかを量る気持ちがあれば、なんとかなることは儘ある。
というか、我々が一番大事だと勘違いしている社会性だの仕事だのを抜けば、生活でどうにでも通じ合えるはずなんだな。
互いで共通の基軸を作りゃいいだけだし。

でも、もうそんなことがだんだんできなくなってきている。
ルール、常識、社会通念、そんなものに侵され、観念が固定されてしまっている私たちには。

もう一度、固定された観念を開放する必要があるのではないかな。

国だとか、数だとか、言葉だとか、表面にとらわれないようにしていきたい。
なぜなら、表面にとらわれてものを量る自分でしかないから、それを出来得る限り破りたい。
いい歳して、無理してんな。と、あざ笑われてもいいんだな。
嘘クセェジジイ、と、非難されても良いんだな。

嘘くさくても、ダサくても、みっともなくても、そっちの方でありたいと思うんだな。

だって、どんどん考えが固定化されてきているのをヒシヒシと感じるのよ、自分自身。
自分でそれを解く気がないと、わたしから見てダサい人間になっていくんだよね。
それは、虚栄心なのかもしれない、スケベ根性なのかもしれない、ピュアではまったくないのだけど、指くわえてそんなんになっていくのはゴメンだな、という感じ。

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