邪魔者がいたのではありません。
邪魔者をつくる私がいたのです。
一楽真
「今日の言葉」はもろにわたしを言い当てられたコトバだな。
この言葉は、正確に言うと一楽さんではなく、一楽さんがある方から聞いた言葉を法話で話されたということらしい。
で、一番気に入らない奴がいる時は、二番手、三番手がきにならない。
ところが、一番がいなくなった途端に、二番が一番に、その二番がいなくなるとこんどは三番が、それかずっと続く、という話もされている。
でもさ、自分に当てはめるとさ・・・
必ず毎日のように合わなければならない場所、仕事場とか学校とかに、自分以外に10人いて、気に入らない側に6人いて、残りの4人は大好き!であったとする。
その気に入らない奴ら6人がそこからいなくなりました。
あとは大好きな人ばっか4人と、5人で楽しくずっと過ごせるぞぉ!とならないんだな、どう考えてみても。
その残りの4人に順位をつけて、最下位の人をちゃんと気に入らなくなり、邪魔者にする。
なんのことはない、いなけりゃいないで作り出すんだよね、邪魔者を。
そんな根性でしかない自分を突きつけられた気がする。
好き嫌いは致し方がない。
合う合わないってのはある。
ただ、嫌いだから邪魔、ってのはやめたい。
切りが無いし、結局はすべてが邪魔になる気がする。
究極は自分自身までもが。
気に入らないやつがいなく成れば過ごしやすくなる、そんな妄想をなくさにゃならんね。
ご都合主義で活きても、活きやすくも、過ごしやすくもなるわけがない。
だって、自分の都合通りに行くわけがないのだから。
そこから始めるしかないよね。
気が合う合わないはあるのは当り前、だからこそ互いに排斥をしあうのではなく、落とし所を探ってみたり、向上的な意見交換というか、腹のさぐりあいというか、そんなことをやっていくしかないよな。
これやっていると、イヤラシイ自分や卑屈な自分という見たくもない自分も見れるし、認めたくもない大っキライな奴のいいところが見えてしまいすんげぇ損した気になったり、負けた気にもなれたりもする。
そんな自分に気づいて、あれま!こんなところもあったのね!、という発見もできる。
嫌な自分であろうが、気づかなかった自分に出遇えるのは刺激的でおもしろいんだな。
邪魔者をつくっってはならないと思いながらも、邪魔者をちゃんとつくっている自分にも遇えるかもしれない。
邪魔ものづくりの行き着くところは自分自身を邪魔者にする。