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いつでもどこでも「死にとうない」。

ブログ2021.04.09

私たちは宗教についても対症療法的な発想しかないのです。
そこには次から次へと「答え」を追いかける姿勢しかありません。
しかし、「答え」は「問い」の中にしかないのです。
その意味で「問い」がすべてなのです。

             池田勇諦

「対症療法」と聞こえのよい、わりと優しいい方に思えてしまう。

「対症療法」ではなくて、その場しのぎ、得手勝手、ご都合主義と言ったほうがしっくりくる気がする。

「宗教」というのは、「〇〇教」とか「〇〇宗」ということでなく、釈迦なり、マホメットなり、キリストなりが気づいた本当のところ、いつでもどこでもだれでもに当てはまる「真実」のこと。

その場しのぎで事実を覆い隠し、得手勝手に解釈し、本当のことをみようとしないご都合主義でしかないのではないかえ。おまえさんの生き方は?って、言い当てられている気がする。

生・老・病・死

新型コロナへの対策は、現状、本当に大切なことだと思う。
国も自治体も個も、職業、性別、年齢、貧富にかかわらず、共になんとかしていかなければならない問題だと思う。

それはそれとして、ここから何も学ばなかったら、ただ、新しいワクチンと薬と治療法が生み出されただけで終わる。
それらが出来上がろうが、ガンの特効薬が出来上がろうが、とんでもなくすばらしい細胞活性化薬のようなもんが出来上がろうが、老いるし、病むし、最終的には死ぬ。
新型コロナで亡くなる人がほとんどいなくなることはあっても、人がなくなる確率は何ら変わらない。
100%だ。
そういうことをきちっと見ないで、ワクチンできたぁ〜!薬もできた〜!新型コロナに打ち勝ったぁ〜!、で、喜んでいるだけだったら、まったく能天気もいいところだろう。

ひとりひとりが、この経験から、いのちって、人って、人間て、生きるって、死って、なんだろう。
幸せって何?
楽しいってどういうこと?
家族って?友人って?恋人って?
敵って?憎いアンチキショーって?
性別って?
わたし、あなた、かれ、かのじょ、って?

そんなヘビーな悩みを見て見ぬ振りしないチャンスでもあるんだな、いまは。

死因は、死の原因は、根本的に言えば、生まれたことだ。

医師がつくる死亡診断書には、死因「心筋梗塞」のように書かれるが、死のきっかけであり、本当のところ、真実からみれば、死因は、みな同じく、どこのだれであろうが、何歳であろうが、どんな生き方をしてきたとしても、生まれたこと。

答えだけの生き方は、行き詰まる。

答えまでの道のりを「問い」だとすれば、死までの生き方が「問い」だ。

日々の生活、仕事、遊び、何一つ無駄はない。
そこに立つには、問いを持ちながら生きることでしかない。

自堕落だと思えたなら、そしてそこから抜け出せないと思えるならそれでもいい。
自堕落の中にも問いはあるはずだ。
このままはいい?ぬけだしたい?
やすみたい?そろそろうごめきたい?
そんなことでもいい。

最近、ある有名な方がインタビューで、
いつ死んでもいい。もうやることはやっらから。
みたいなことを仰ているのを聴いた。
なんかわたしにはしっくり来なかった。
本当にやりきっているのかな?
生きるのに疲れただけなんじゃないのかな?
みなに注目されて、惜しまれているうちに、なんて思いもあるんじゃね?
ま、そんな疑問が出て。
天の邪鬼極まりない自分にちょいと呆れた。

でもね、ワタシ的には、仙厓和尚という禅僧が死に際に弟子たちに、
「死にとうない」
と言い残したという話のほうがピンとくる。

博多の仙厓(せんがい)さん | ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう | 地域社会貢献活動 | 西日本シティ銀行について | 西日本シティ銀行www.ncbank.co.jp

仙厓和尚は数々の逸話を残した名僧であり、多くの人に敬われた人格者であり、一休さんと良寛さんを足したような方(わたしの勝手なイメージです)だった。
そんな方が、「死にとうない」。
亡くなったときは88才だったと言われている。
88まで生きた、名僧の遺言が「死にとうない」。
人間らしいというんじゃない。
こんなこと言えない気がする、そこまで生きれたとしたら。
生ききっていない、諦め着かない、未だ答えを出すには早い、そんな問いを残してくれた気がする。
「死にとうない、と言えるくらい、必死に生きているのか、お前は?」

今なら言えるよ、「死にたくない」って。
それは、まだあれが、これが、というよりか、まだなんか生きていたいし、死ってもんに対して現実味がない自分だから言うこと。
死に際って苦しいかも、痛いかも。
死んだ後に、みんなに悪く言われっかも。
とかそんなレベルでの死にたくない。

そうではなく、このいのちがとんでもないもんなんだ、すごい宝もんなんだ、そこに立った上での「死にたくない」はまだ言えない。

最高の欲望、この上ない自我と執着。
そこから絞り出す「死にとうない」。
仙厓さんは、いのち諦めるほど未だ生ききれていない自分へ言ったんじゃないかな、まだ終われないぞって。
たぶんどんな状況におかれても、幸せの絶頂でも、不幸のどん底でも、「死にとうない」と言えたのではないかな。
で、「死にとうない」って言葉で弟子たちにこの問題をバトンタッチした気がする。

で、わたしは、「いつ死んでも〜〜〜」というよりか、「死にとうない」を目指したいってだけのことよ。
それは人それぞれ。

ともかく、その場しのぎ、得手勝手、ご都合主義で生きがちなのだが、問い続けながら生きていこう。

ものわかりの良いジジイにだけはなるまいぞよ。

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