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五輪は日本の消費税と同じだ。いまのままなら不要。

ブログ2021.06.22

地獄も浄土も「造ったからある」。
造らなければないのです。
私がよく申すことがあります。「いま私の前に机(教卓)があります。なぜあるのですか」とおたずねするのです。答えは極めて単純なことなのです。それは「造ったからある」のです。それだけです。

            池田勇諦

今日6月13日は「鉄人の日」らしい。

鉄人って?

衣笠祥雄が世界記録2131試合連続出場を果たしたのが36年前の今日なんだそうだ。

今朝、カーナビが「6月13日、今日は鉄人の日です」と教えてくれた瞬間、頭に浮かんだのは鉄人ルー・テーズだった。

でもって、今日は周りに誕生日の人が重なっていたりする。

姪っ子、親友、従兄弟と。

昨日はやはり親友の誕生日だったし、明日はすんげぇ世話になっている先輩というか、う〜ん、あの人はどういったらしっくりくんだろう?ま、そういう人の誕生日だ。

だからなんだと言われても困る。

ただそれだけのことだ。

理由付けなんてない。

理由をいちいちつけると大変だ。
真実よりも理由のほうが大事に成っちまいがちだし。
その理由が、人間が作り出す理由だから、しょっちゅう変わる。
そんな理由を後生大事にするもんだから、いつまで経っても、あっちフラフラこっちフラフラと足場が決まらず、不安でしようがない。

それが人間の社会だと思う。

最近、真理(ほんとうのところ)と事実(いまある社会状況)のギャップというか、乖離について考えさせられることが多い。

とても大事なことだ。

真理ってものは、それだけを考えていても理念でしかなく、机上の空論でしかなく、もっといえば、真理がわかろうはずもなく、わかった振り、わかったつもり、勘違いでしかない。
でも、それを無視して、現実と言われるいまをただ闇雲に生きるのは、己では真っすぐ歩いている、泳いでいるつもりであってっても、正しい方向へ進んでいるつもりであっても、足場が決まらないでいるのだから、とんでもない方向へ進みがちだ。

人間である以上、社会で生きることは否定できない。

山にこもろうが、どっかの孤島で一人きりになろうが、社会常識という自らが作り上げた妄想でしかない理念に少なくとも侵害され提起ざるを得ない。

そんな時に、「それでいいの?」って、「それって本当に常識なの?」って問いかけてくれるのが「真理(本当)」ってもんだ。

何一つ解決していない、何一つほんとうのところわからない、そこに気づかせる働きが「真理」の働きなのかな、と。

事実を事実として無視することなく、その事実を見る時に色眼鏡をしている自分が見ているということを受け止めて、事実に当たる。
そこからわかったことを、それほんと?、と改めて悩ませる。

真理と事実の関係性について考えると、いまのところそれくらいでしか理解できていない。

ただ一つ思うのは、気をつけているのは、事実に無理やり真理を擦り寄らせるのは間違いだということ。

社会で生きる以上、社会性が大事だし、社会で役に立つ教えが欲しい。
そのあまり、社会で役立つ、みんなに喜んでもらえるからって、真理を捻じ曲げるのは本末転倒。

仏教では、「無我である以上は死はない」とまでいうこともある。
死なないということではない。
生まれた以上、死ぬ。
ただ、「わたし」とか、「あなた」とかいうカテゴリを外すと、いのちは縦横無尽、時間も空間も超越して繋がっているので(わたしのいのちも釈迦のいのちも虫のいのちも、〇〇のを取り外せば、同じ「いのち」ってもんでしかない)、「死はない=生もない」という、あるのは「縁、自然」だけである、というようなとこまで行き着くようだ。
で、それをもってきて、「死なない法」とか、「釈迦は生きている」とか言い出したら、こりゃ大間違いのスットコドッコイだ。

矛盾するが、人間として生まれた以上は死ぬ。
でも、「わたし」というカテゴリがハズレたら、「死」はなくなる。
我執(わたし)・我所執(わたしの身体)という観念を、カテゴリを外せばの世界であり、存問外せるわけがない。

それならば、わたしは目の前の事実を生きるしかない。
事実を生きる時に、「ほんとのところ」は折々でわたしが信じ切っている「事実」の矛盾とエゴを教えてくれる。

わたしが属し、私たちが創り出している「社会」は常に矛盾があり、プラスを作ればマイナスが、救われるものがいれば貶められるものが、喜ぶものがいれば泣くものが、進歩のうらには破壊がある。

そのバランスをしつこくしつこく取ろうとしていくことが事実を生きること。
その時、見えざる汚点を照らし出すのが「真理」というものだと思う。

鉄人衣笠祥雄も鉄人ルー・テーズも素晴らしいアスリートだと思う。
ただ、わたしは現在、東京五輪という、いや現在のIOCが主導する五輪そのものが、汚点であり、不要だと苛ついている日々だ。
一回、IOCってくされた団体を解散して、五輪を廃止して、どうしてもまた、というのなら、もう一度イチから作り直さにゃ、ホント、いらないお祭りだね。
日本の消費税と同じで、まったく初期理念からハズレてるんだし。

でもって、アスリート、って言葉すらもムカつきだしてしまっている、最近。

自分で使わなければ良いのかもしれないが、アスリートと打ち込むだけでムカムカする。

だし、なんか衣笠もテーズまでにまで八つ当たり感があったりする。

思っきし、我執でしかない。

こんなわたしが創り出しているいまこの状況は地獄だな。

なんのことはない、わたしの我執と我所執が地獄を創造し、そこにわたしを落としめている、と、「ほんとのところ」が教えてはくれている。

でもね、地獄から抜け出す気がしない、抜け出したいとすら思わない、ここが地獄だということすら気づけない、鈍感な自分がいる。

ともかく、今日も好き放題、おもうがままにゴンタクレられて、少しだけ気分が立っている。

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