現代文明の発達は自然からの離反を促進することによって、人間が自然のなかで自然に生きるよろこび、自ら労して創造するよろこび、自己実現の可能性など、人間の生きがいの源泉であったものを奪い去る方向にむいている。
どうしたらこの巨大な流れのなかで、人間らしい生きかたを保ち、発見して行くことができるのであろうか。
神谷美恵子
科学に翻弄され、医学に翻弄され、理知に翻弄されていく、啀み合い、憎み合い、罵り合い、笑顔を忘れ去り、最終的には感情すらも忘れ去っていくのは、人間らしいと言えば人間らしいのじゃないかな。
人間らしさって、結果、自らの傲慢と欲望に追い詰められて、どうにもならなく成ることなのかもしれない。
だって、こんなことを悩むのは人間だけだし、自己の生存を成り立たせるためでなく、欲得と好き嫌いで他者を殺すのは人間だけだ。
いま人間を追い詰めている様々な事件や事象は、この殺伐とした息苦しい社会は、実に人間らしい創造物なのかもしれない。
「人間なんてものは、もうとっくからいらない生きものになっている。」と、悲鳴のようにかん高くなった声が聞こえました。「この世界を人間のすむよちもないようにしてしまったのは、人間じしんじゃないか。こんどはわれわれがこの世界を支配する!」
ミヒャエル・エンデ 作『モモ』より
モモに向かって「灰色の男」が放った言葉。
昨日も書いたが、50年近く前にすでにエンデはこうした社会の闇を指摘している。
そして、神谷恵美子が「今日の言葉」を記したのも50年以上前だ。
ずっと同じことが言われてきたのだろう。
ここまで、科学や医学や哲学や心理学などが発展する前から、人間が皆賢くなる前から、同じ危機感を共有していたのだと思う。
ただ、以前は、もう少し「便利さよりものんびり安心」の方を大切にする気運があったのかもしれないが。。。
なにもできない、なにもすることがない、無駄な時間、そうした状況をやり過ごす余裕がなくなってしまったようだ、現代社会は。
孤独感がよりましているように思える。
こうした状況から脱却するには、まずは、個々が立ち止まることを恐れないことから始まるような気がしている。
立ち止まり、自らのいまをしっかり見つめる。
無意味な笑みを浮かべられているか。
挨拶を交わす時に相手を睨んでいないか。
今日は誰も羨まず、妬まず、恨まないで過ごせたか。
そして、こうして立ち止まっていることを無駄だと思ってやしないか、置いていかれると不安を感じてやしないか。
そんな自分を見つめることが、立ち止まることが一歩になる。
目指すのは、生き辛さを自分自身が感じない、わたしが安心して笑顔で過ごせる社会。
簡単なことのはずだが、今の日本人には相当難しいことだと思う。
でも、どこからでもいいから、「わたし」が始めなければ始まらない。