新年、明けまして おめでとうございます。
ここ何年かの寺報を見返すと、出だしは、
「新年のご挨拶を申し上げます。」
でした。真宗に「喪に服す」という考えはない、とうけとめてはいても、読み手(受け手)の方は大事な方を亡くされて、「おめでとう」「お慶び」なんて気分にはなれないだろうな、と、どこかで感じていてのことだと思います。
出息入息不待命終(四十二章経)
【出る息は入る息を待たず、命終わる。】
という言葉があります。簡単に言うと、ひと息の中に「生死・一生」がある、ということです。
ただ、命があるから、生きているから、息をする。そこに意味はありません。
生活とは、「目を覚まし、飲食をし、排泄をし、眠る」ただそれだけのことで、それを維持するために、仕事や遊びや学びがあり、仕事や遊びや学びは生活の為の手段でしかない。それが逆転してしまい、現在では、仕事のため、遊びのため、健康のため、睡眠も食事も在る。そんな状態に疑問を持たねばならないのでは、と、時々、法話などで語っていました。このことが間違いであるとは思わないのですが、ただ、【生活は「ただ息をする」それだけのことなんだな、きっと。】そんな思いにさせられる今日このごろです。
で、じゃあ、どうなんだ、そこに思いを致して?と、問われれば、別に何も変わらず、無意識に呼吸をして、深呼吸やお勤めのときのブレスやウォーキングやストレッチをしているときくらいしか呼吸を意識することなどないですね。現に今、この瞬間も無意識で息をしている。まぁ、いちいち、呼吸を意識して生きてなんていられるわけもないし、そんな在り方は、なんか嘘くさくも思える。呼吸は無意識がいいのでしょう。
「ただ息をする」だから。無意味でなきゃ。
で、それでも、当たり前に今ここにあることは確かにすごいことなんだな、と、教わった気もしたのです。それならば、毎日は無理でも、年に一回くらいは、「いま・ここ・わたし」に感謝というか、無意味に自らを受け止めるのもいいのではないかなと思うのです。ですから、自分自身に言いたいのです、今年も奇跡的になんとか迎えられたぞ!おめでとう!と。故に、今年から、考え方が変わるまでではありますが、誰はばかることなく、正月くらいは、明けましておめでとう、と、言おうと発心させられたのです。皆様におかれましても、おめでとうございます。
副住職