3月18日(土)〜24日(金)までお彼岸です。この期間お寺もしくはご自宅での読経を承っています。なお期間中の読経供養はすべて予約制といたします。
ご希望の方は必ずお電話でご予約ください。
また、当寺の法要は24日(金)午前11時30分より勤修いたします。(定員25名、予約制)
*法要は満席になりました。申し訳ありません。
春のお彼岸です。
年が明け、なんだかせわしなく過ごさせてもらっています。
そんなんで、朝から写真を撮りに行く気力も失せ、ひと月半、公園にも行かず、体調が悪いわけではないのですが、「なんかはっきりしない、しゃんとしないなぁ」なんて思いながら日々が過ぎてしまって、ちょいとばかり危機感を覚えだしてきてはいます。そろそろ、また、走りに行ったり、写真を撮りに行ったりしなきゃな、とは思って入るのですが、一度切れてしまったスイッチは早々かんたんに入らない、キッカケがほしいなと。一旦スイッチが入ると、勢いだけで何でもやらかすので、キッカケというものが自分にとっては、何をやるにしてもとても大事であるようです。
ちょっとした、何でもいいからキッカケ。
こんな事を言いましたら信用をなくし、叱られるかもしれませんが、わたしは、自分から手を合わせたことは皆無と言っていいくらいなかったと思います。仏法に触れる、教義に触れるなんてこともなかったし、これからも無いのではないかなと思います。門徒の皆さんや知り合った方々に問われて、ご法事やお彼岸やお盆に呼んでいただいて、法話をするチャンスを頂いて、気がついたら、経典を読まされ、それについて考えさせられ、問に対して考えさせられ、わからないままにしておきたくなくあれやこれや本を読んだり、人に聞いたりしたりして、いよいよわからなくなり、自分の考えそのものに疑問が生じる、そんな立場にいつも立たせていただいているようです。たぶん、そこに立っていなければ、自分はおそらくなんにも疑問を感じない、独りよがりだけでしか無い価値観にいよいよ酔いしれ、もっと苦しく、辛い、いや、苦しさにも辛さにも気づくことのないような生活を送っているのではないかなと思えるのです。
「自分で話したことを自分で聞きなさい」とずっと教えられてきました。いつの間にか、その癖が気づかないうちに付いていると感じることがあります。そうした癖が嫌でも自己矛盾を感じさせてくれているのです。ただ残念なことにいつもではありません。大概は、自分の言葉に酔って、自分の価値観に縛られて身動きが取れなくなっている状態にも気づけずに過ごしているように思われます。仏法に遇う場所(法事・盆彼岸など)は、そんな鈍感なわたしに、「不安」を感じさせてくれる、「実は不安なんだ」と気づかせてくれるのです。声高に自己を主張し正義をかざすのは、自分が見えない不安から出る承認要求でしか無いのではないでしょうか。
お彼岸。彼岸とはお浄土のこと、仏さまの国、倶会一処、再会を約束された場所です。で、それはどこにあるのかと言うと、《ここ》にあると言われます。《ここ》は人間には一番わからない場所です。明日や数年先というちょいと先の未来、いままで歩んできた過去には視線は行くのですが、足元が見えない、立ち位置を確認できない、不安に立脚しているのが人間なのでしょう。そんな私たちに、「ちゃんと《ここ》に立っているから安心しなさい」という声を仏さまがかけてくれています。その声に耳を傾ける時間がお彼岸なのでしょう。
《ここ》にあることに気づくキッカケです。 副住職