私たちは自分の頭の中でいわば人間であるということで、分別あるいは知識、あるいは理知というものでいのちを捉えようとする。
あなたのいのちは尊いのだと言いながら、あなたが生まれてきた条件を探している。
祖父江文宏
ただただそこにいてくれるだけでいいんだ。
そうは言うが、これは知識でしか無いのではないか?という疑問を持ちながら、こういう言葉を受け止めなければね。
そうしないと、自分の知識に酔っているだけで、実は他者を量りまくって、価値をつけて、その価値でしか他者を評価できないことにすら気付かない。
隣で、本当に何もしないでいられたら、基本イラつく。
ムカつく。
「いや、何もしないでいいにしてもさ、少しは考え事をするなり、それができなくても、幸せそうな顔をするなり、笑顔を向けるなり、なんか知ろうよ!」
となる。
ひとつでも、その人に何か存在だけ以外のいいとこを見つけちゃうと、人間は欲張りだから、もっとを求めてしまう。
生まれてきてくれて、生きていてくれるだけで十分。
泣かない、笑わない。
隣の子は同い年なのに、笑うし、泣くのに。
もう何かしらの言葉らしきものを発するのに、うちの子は・・・、と不安になってしまう。
不安になったり、求めてしまうことが悪だというのではない。
比べてしまう、求めてしまう、そんな自分だということを抑えておくことが大事だ。
子供に対してだけではなく、親兄弟に対しても、友人に対しても、同僚上司部下に対しても、何でもかんでも自分で測り、自分で分別し、良し悪しを付けて、求めてしまうのが人間という生き物だ。
これはね、何よりも、自分自身を叩きのめす、許せない生き方に繋がってしまうんだな。
だから細心の注意を払って、自分が他者を、その人の持ち物(知識や才能や物品や金や見た目や出身地や性別や年齢などなど)で良し悪し、上下を付けていることに気付くようにしないとならない。
人間は持ち物で差別する。
だから、持ち物=生命になっていやしないか。
そんな自分が垣間見えたら、ちゃんと情けなく恥じ入ることができる、そういう心の豊かさが必要だ。
持ち物は必ず手放さなければならない時が来る。
どんだけ死ぬ間際まで財を積み上げていようが、知識をため込んでいようが、150歳まで生きたとしようが、死とともに手放すことになる。
今の自分の生活や生きていく気力に必要だとして、それを大事にするとして、でも、持ち物があなたではない。
そういうわたしを目指す。
そういうあなただと受け止める。
それが、できるできないではなく、後生の一大事として生活していく。
理屈でも、知恵でも、理知でも、分別でもない尊さなのだから、思える思えないも、できるできないも関係ない。
甘い?
思考が甘かろうが辛かろうが関係ない。
誰がどう思おうが、誰が否定しようが関係のない、決定事項、それが生命の尊厳てやつだ。