現代の進歩的文化人がたよりにしている理性は、真の理性と呼べるものではありません。
彼らは自分の我を理性と混同していますから、理性自身を疑うような強くてしなやかな理性ではないのです。
大峯 顯
ここのところ、よく、おせち料理は必要なのか?という声や文章に触れることがある。
どちらでもいい、というのが正直なところだ。
嫌いな人は食べる必要もないだろうし、好きな人は食べればいい。
気分をそれでチェンジできるとか、色んな意味もあるし。
昔のように、三が日はどこもやっていなくて、正月くらいお母さんを休ませたくて、しようがなしに長持ちする料理を作ってそれをひたすら食わなければならない、という時代でもない。
スーパーもコンビニもデパートもやっているし、飲食店も普通にやっているしね。
好き好きでいいと思う。
おれは、なんか好きなんだな、おせちや雑煮。
餅が好きってのもある。
でも、普段は食べないようにしている、ある年代から。
餅を食うと確実に太るようになり、成人病だのコレステだの血糖値だの尿酸値だのを気にしないわけにはいかないようになってからは、「餅は基本正月だけ!」を課している。(時々食べちゃうけど2〜3個)
あと、買ってきた市販のお節は口に合わないので食べたくない。
食事で甘いのが嫌いなので。
何度か料亭のおせちというのを注文して食べたこともあるが、あれなら食べたくないな。あれなら、今どきだったら、おせちは無しで、なんか作って、米の代わりに餅を食う、って方がまだいい。
ま、おせちと言っても、自分で作るのは松前漬けと雑煮くらいだけどね。
あとは、親や兄弟が作ってくれたものをいただいている。
それがいいんだな。
おせちがどうのこうのは別として、人間てさ、なんか理由、キッカケがないとなかなかスイッチが入らないじゃない。
今日から何々です、と言われても、なんかピンとこないことがない?
例えばお盆とかお彼岸とかはどうなのかな?いまどきは。。。
やったからって、そもそもお盆も彼岸もピンとこなくなっているのかな?
お盆と彼岸に関して言えば、オレなんかの場合は「忙しくなるなぁ」って感じだけだけどね。
浄土真宗じゃ迎え火・送り火を炊く必要ない、お盆飾りは別段いらない、彼岸だからといっておはぎを食べる必要もない、普段どおり、昨日と同じようにすればいい、なんて世界だから、仕事がめちゃくちゃ忙しくなるのに備えて体調を整える、くらいだけどね。
スイッチは、一軒目のお宅でリンを鳴らしたときに入ります、って感じ。
あ、こんな話どうでも良かったね😅
いや、そんなもんだから逆に言うこともあるんだよね、「迎え火・送り火になんら教義としての理由付けはないけれど、人間ってなにかすることでスイッチが入るから、迎え火を焚くことでお盆を実感できるのであればぜひ焚いたらいいですよ」って。
そんなもんじゃないかな。
オレが子供の頃だったらさ、無理やり大掃除をさせられて、年越しそばを食って、レコード大賞を観て、紅白を観て、ゆく年くる年を観る。
それが大晦日ってもんでさ、ゆく年くる年がつまらんので寝て、起きたら年が変わっていて、おせち食うときに「あけましておめでとう」を言って、一年が始まる。
お年玉がもらえる。
そんな感じだった。
それが染み付いちゃっているんだろうね。
大掃除も、紅白も、ゆく年くる年もいらないんだけど、年越しそばとおせちがないと切り替えが上手くいかないんだなぁ。
だから、自分にとっては、おせちとお雑煮は大事なようだ。
で、今年は、つい最近までめちゃくちゃ時間がなくて、気がついたら29日。
あと3日で年明けかぁ。
と、いっても、普通に時間が過ぎて、普通に夜が来て朝が来るだけのことなんだし、年明けたから急にコロナが沈静化するわけもなく、自分の心根が良くなるわけでもないし、もうめんどいからいいかな。
と、朝起きたときに思ったが、午前中、時間が空いてしまったら、ムズムズしてきて、例年のようにイケセイに大量の餅と松前漬けを作る材料を買いに行ってしまった。
現在、松前漬けの出汁を作っている最中。
オレの松前漬けは美味いよぉ〜😆
大量の酒を鍋に注ぎ込んだ瞬間、年末スイッチが入った。
そんなんでいいのでないかな、今どきのおせちの役割って。
みんなあると思うんだな、ひとつやふたつくらいは。
これをするとスイッチが入るってもんが。
それは、変なことをするわけでなければ、気持ちを切り替えるキッカケであるとか、一歩を踏み出せる、もう半歩を踏み出せるキッカケであれば、大事にしていいと思うし、周りがどうのこうの言うことでもない。
文化を伝えるため、とか、社会のため、とか、そんなに難しく考えないでもいいよ。
自分がスイッチが入るため、それだけで。
さぁ、今年は三が日で何個餅を食べよう。
年の数は無理そうなので、年の半分の数くらいは食べたいと思う。
餅食って、正月太って(2〜3週間後に来るやつ)、粗食を心がけけて、茶碗に盛る米の量を心持ち減らしての2月を過ごして、気がついたら春。
春のスイッチは、やっぱ桜かな、ここ7〜8年は。
写真を撮るようになってからは、桜を撮りだすと、春だな、って思うようになった。
夏は、やっぱ何だかんだ言って「お盆」。
それも東京なので7月。
それもお盆明け。
7月16日のお盆明け。
これが終えると、いよいよ夏だぁ、ってなる。
そう言えば秋は。。。
いつの間にか秋になっているし、ここ何年かは、秋があまりないような気もするなぁ。
もう少し、季節ごとに、何ぞスイッチが入る「これ」を探してみようかな。
さて、そろそろいい感じで、つけ汁が煮詰まっているかな😆
あ!いまUPしようとして、まったく今日の言葉に触れていないことに気付いた😆
いや、いつものことなんですけど自分の中では繋がっているもんで。
それにしてもなので。。。
現代は、みんながみんな、文化人、知識人、理性の人、賢い人になっちゃているよね。
だから、何かしらするにも、やめるにも、肯定するにも、否定するのも理屈理屈。
でも、そんなの本当はどうでもいいんだと思うよ。
理性の人は、理屈付けられないと自分の気持ちまで押し殺す。
それは理性でもなんでも無いよね。
周囲を気にしての見栄でしか無い気がするんだな。
そんなところで生きているんだなぁ、と、自分自身が毎日。
だから、理屈もクソもなく、なんかこれやるだけでスイッチ入ります!ってもんは、植え付けられたもんかも知れないけど、大事にしたいんですよ。