また新しい年が明けた。
不思議だ。とても静かだ。
12月はうるさくて、1月は静かで白けてる。
人々は相変わらず踊らされているのさ。
俺も踊らされているのかもな。
新年が何だ。
去年も今年も来年もへでもねえさ。
忌野清志郎
新年を久しぶりに起きて迎えた。
???
なんか変な言い方だな。。。
いや、あの、その。
毎年、お陰様でいまのところ新年は起きて迎えているのだが、そういうことではなく、ここ何年か(5〜6年かな)は12月31日午後11時59分までに床に入って、寝落ちしていたので、目が覚めたらすでに年を越している状態だったが、昨夜というか、すでに今日となっていたのだが、寝たのが午前0時を回って、午前1時過ぎになったということがいいたかたんだ。
つまり起きた状態で年を越したというわけだ。
それがどうしたということでもないが、久々だったと報告がしたかったんだ。
改めまして、
新年 明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
坊さんのくせに、新年を喪中で迎えられない人もいるじゃないか!
と、いう方もいるかとも思うが、新年は喪中であろうが、病の中であろうが、嫌でも迎えられてしまうのだ、きてしまうのだ。
かんがえかたはそれぞれなので、ムカついた方、癇に障った方は申し訳ない。
うちでは、ばあちゃんが死んだ時も、オヤジが死んだ時も、ふつうに正月を迎え、寺からも、個人的にも、年賀状やメールやライン等でお祝いの挨拶を送った。
それがオレがオヤジから教えられたスタンスで、そのスタンスのほうが自分にシックリ来るので、素直に受け入れている。
いっちゃえば、自分からは送ることはないが、メリークリスマス!、という挨拶がきたら、メリークリスマス!と返してしまう。
まぁ、これは敬虔なるキリスト教の信者さんには申し訳ないが。。。日本の風習と化してしまった方のクリスマスへの参加者意識があるということだ、どこかに。
ということなので、アケオメコトヨロはみんなにとって大事であると思う。
朝、目が覚めた時に本来は感じるべき、今日も命をいただくことができた、という感動を、ひと息ひと息ごとに感じるべき生命の新鮮さを、そんな事ができないわたしが、唯一、それらしきことを感じられる年に一度のチャンスだと思っているんだな。
ま、日本の風習ってやつに、文化ってやつに、社会性ってやつに、常識ってやつに踊らされている自分を感じられるチャンスでもある。
せっかくの正月だし、ムカついたけど、ムカつきを納めよう、怒るのやめよう、って思って、その通りにできるまれな日(一事が万事ではない。十回ムカついたうちの一回だけとかクラスでしかないが)でもある。
よくよく考えれば、昨日2020年と今日2021年は店がやっているやっていない、テレビ番組やCMが違うくらいで、ほかは何も変わらない。
この程度の変化は、2020年12月30日と12月31日の間でもあった。
いきなり一年が経ったわけもない。
誕生日にしても同じだな。
いきなりひとつ歳を取る、って世界も変なもんだぜ。
でも、そういうことにして、それでいい方向に持っていけることもあるのだし、その手を使わない手はないかなとも思う。
ま、都合のいい方に持っていくためにこの手を使うのはダメダメだし、そういうことに使うやつは基本信用できない。
安モンの政治家のように
「2021年は変わります!」
「年が明けたので、コロナも終息して、オリンピックをやりましょう!」
なんてことをいう政治家みたくはなってはならない。
オリンピックで浮かれて、自分の内輪のパーティーやら飲み会(会合という名の)ではしゃいでいるくせに、「若者は親のことを考えて!」「個人個人の責任で!」とかいけシャーシャーと言って、コロナの罹患者数が増え続けるのを、あくまで個人責任だと、一切の責任を負うことを拒否しているような政治家が、「新年は〜」なんてぬかすのは、あまりにも無責任で、こんなやつを選んだわれわれ有権者のアホさ加減に頭痛がする。
そうはいっても、どんだけ首相や都知事が使えない人間だったとしても、年は明けてしまうのだ。
一切の感情がない、時間には。
そんな時間てやつに振り回されているのは人間だけだ。
今朝、アイガモも小鳥も鵜もサギも、それこそ散歩に連れられてきているワンコも、新年なんて知ったこっちゃない体だったぜ。
そう、自分たちで勝手に作り出した時間ってルールで縛り付けているのは自分自身でしかないし、それはほどくことができない。
それならば、そのルールを把握し最良の使い方を人間同士が量りあって、探って、紡ぎ出すように務めることは必要な気はしている。
去年も今年も来年も、昨日も今日も明日も「へでもねえさ」は、去年も今年も来年も、昨日も今日も明日も、大事に生きることにしているやつにだけ言える言葉だ。
おれは。。。言える日と言えない日がまだあるな。