死を現在に自覚し、いかにこれに処すべきかという自覚が人生の全体を自覚する可能性を与える。
三木清
今日から春の彼岸だ。
彼岸というのは、浄土真宗では「浄土」のこと。
それに対して、娑婆世界を「此岸」「穢土」という。
テレビやラジオや新聞なんかで、本とかで、亡くなった方が「天国」へ、のようなことを言っているが、いい加減勉強しろよ、と、子供の頃から思っている。
すくなくとも、天国へはいかない。
往くとしたら「浄土」だ。
そして、「天国から見守って」というが、そんな薄情ではない仏は。
上から見守っているわけでなく、つねに気づきをくれる働きとして、「?」をいちいちわたしの思考に付けてくれる働きとして、共にあってくれるのが「仏」である、と、わたしの聞いてきた浄土真宗では捉えている。
だいたい、仏教においては、「天」は決していいところとしてない。
最も迷いの深い、煩悩の根深い、嫉妬と我欲に燃え盛る場所としている。
一節では、地獄の苦しみの16倍の苦しみがあるのが「天」としている。
それくらいきっついところだ。
この場合の「天」はキリスト教やユダヤ教やイスラム教の説くところの天国とは違う。
どちらかというと古代インドのカースト制度によるところの「天上界」。
でもって、人間が人間の欲望を、権力を持って欲したものを全て手に入れようという、人間が創り出した理想郷と思っている勘違いヤローの国だ。
少なくとも、仏教徒の方が亡くなられたとして、「天国に〜」と言ったら、そっちの「いつまでも欲から抜け出せず、欲に苦しみ、手に入れるためならなんでもしでかす、殺し合いもいとわない世界」のことを指す。
ま、言葉遊びになってしまうきらいもあるが、「天国に召されました」とか、「天国から見守って」とか、いい加減なことを公共放送を使って撒き散らすのはどんなもんかなとは思う。
いかにも識者ヅラしたコメンテーターとかが、仏教徒と思える人が亡くなって、「天国に〜」とか言ったら、あぁ、この程度なんだ、と思ってもいいと思う。
識者のくせに、思想・宗教というものを理解できていないのだから、ま、怪しいもんだ。
ちなみに、無宗教と公言してらっしゃる方が亡くなられても同様だろう。
キリスト教徒でもイスラム教徒でもユダヤ教徒でもないのに、天国にはいけないだろ。
でも、無宗教と公言されていた方が亡くなられた場合でも、「お浄土に〜」は間違いではない。
浄土の大前提は、すべての生きとし生けるものが帰する場所、ということなので、無条件で入国できちゃうから。
ごたくならべてます。
さて、そこで、彼岸について自分なりになにか書こうとも思ったのだが、時間がないので(←逃げ口上😅)、以前、「寺報」に書いた雑文を載せて逃げさせていただきます。
以下、ある年のなんとなく彼岸についてというか、彼岸から感じたことを書いたものです。
極楽ってなんでしょう?
「楽」を「極める」ということだからさぞかし楽しい場所なんでしょうね。望むものがなんでもあって、全てが叶えられて、気の合う仲間だけに囲まれて、全てにおいて満たされている場所、それでこそ「極楽」。と、考えるのが「私たち」です。
望むものがなんでもある。いま、現状はどうなんでしょう?全てが叶えられていく。今のわたし達の社会はどうなのでしょう?気の合う仲間だけに囲まれている世界。それはどういうことなんでしょう?
私たち人間はひたすら望むものを手中に入れるべく生きてきました。それが争いの源となっています。竹島や尖閣諸島、北方領土の問題。原発で浮き彫りにされてきた便利さ故の弊害という問題。良し悪しではなく、欲しい物を手に入れることは、必ずそこに争いや差別や泣きをみる人を作っていく事です。これが極楽でしょうか?
全てが叶えられてきて、今の日本は豊かになったのでしょうか?一つの事柄を成就する時、そこには切り捨てていかねばならないものが出てきます。都会化するには田畑や山林、環境は切り捨てる必要があります。アスファルト化した東京では、昔のように、雨が振っても、打ち水をしても涼しくなるどころか、かえって蒸し暑くなってしまう夏、という環境を手に入れました。楽しくないです、ぜんぜん。
気の合う仲間にだけ囲まれている。それは、偏屈者のわたし自身が一番好きな環境です。気の合う仲間、良いですよね。社会ではそうはいきませんが、せめて遊ぶ時くらいは気の合う仲間とだけいっしょにいたい。そうすると、あら不思議。基本、一人でいられる時間を異様に求めてしまいます。気の合う仲間は、あくまで自分と同じ事を考えていなければならないのです。気の合う仲間が違う方向へ行こうとすると、それは許せません。お前はそんなヤツじゃなかった。お前だけは信じていた。裏切られた気分になり、孤独感にさいなまれ、こんなんだったら一人でいるほうがいいや、となる。それが怖いので、気の合う仲間にだけ囲まれていたいという思いが強いわたしは、基本一人でいることを選びます。楽しくはないですよね。
わたし達、人間が考える「楽しさ」というものは必ず欲求が根本となっています。「欲」を持つということは、必ず「憂い」を伴うとお釈迦様は説いています。たとえわたし達を取り巻いている現在の社会で正義とされる「欲」であろうと、そこには「憂い」がついてくるのです。涙が流されるのです。それは、自身の涙ではないかもしれません。それが「わたし」にとって「悪人」の涙であっても、間違いなく涙が流されるのです。
わたし達の思い描く平和・幸せ・喜びは、決して「極楽」ではないということだけは知っておきたいものです。
仏さまが「ここで必ず会おうね」と約束してくださっている「極楽浄土」は、欲というものがなくなり、選ぶという感覚もなくなる世界だと説かれています。わたし達の世界観からでは想像もできない感覚だと思います。それがどういうことなのかを解らないまでも味わって、共に住むことが約束されている「極楽浄土」を感じてみる時間。そしてそこから見えてくる自分たちの矛盾を見つめる時間。それが彼岸会です。