人って生まれ落ちたときから肩書きがあって、誰かの子どもとか、誰かの夫、何とかちゃんのお母さん、会社だと役職とか。
でも人って誰でも「本当の自分」というものを持っていて、そこを大切にすることは、相手を尊重することにつながるなと。
私はそれを大切にしながら、人と向き合っていきたいなと思います。
柚月裕子
肩書の一切ない自分って生きたことがないと思う。
極論から言えば「わたし」とか「自分」てのも肩書だし。
そこまで問わないにしても、名前であるとか、誰それの子供であるとか、親にはなったことがないが、叔父であるとか、弟であるとか、なんかしら社会的な肩書を排除できたとしても付いてくる。
誰かから無理矢理にそう受け入れろと言われてもいないのに、自分から好んでそこで生きているようだ。
それがないと不安なんだろう。
自分の証明がないような気がして。
証明してもらえるものがないと人間というのは自分を生きることができないようだ。
肩書のないわたしを生きたことがないので、肩書無しで生きることがどんなことなのかはわからない。
でもなるべく肩書を削って自分自身を見つめるように気をつけることはできる。
それをするとしないとで、自分がどうこう変わるってことはないが、弱虫で臆病者だし、猜疑心が強くて天の邪鬼だし、欲深くて認められたしいのままだが、他人を切り捨てるようなことだけはしまいと、その時だけ、少しだけだが思える。
そうすると、さっきまでムカついて苛ついていた気分が、その時だけだが気分が収まることもある。
つまり、突き詰めれば、肩書というバリアを取り払うことは、自分自身の生活を穏やかに過ごすことに繋がるってことなんだな。
肩書ってもんを後生大事に生きる人もいる。
間近にもいる。
家柄だとか、役職だとか。
家柄大事にしてらっしゃる人は、たいがい、お下品に見えてしまう。
ざんねん。
役職=わたしで生きてらっしゃる人は、その役職が上がったり下がったりで一喜一憂し、仕事がなくなることを恐れ、若い優秀な人に恐怖心をいだき、現役を退かれた瞬間、自分が誰なのかがわからなくなり、やたらと過去の栄光を全く関係のないところで声高に吠えまくり、苦笑されている。
そんな人も多く見てきた。
そんなもんは必要ない、とは言わないが、そんなもんが自分の価値であるなんて自分自身を安くみないほうが良い。
肩書なんぞあろうがなかろうが、あなたは大事な人なんだな。
たまには、自分の社会的な肩書をつまらないもんだとみてみるのも大事だ。
先日見ていたドキュメントに夜間中学の先生がでてた。
その人は生徒と自分は水平・平行だと言っていた。
夜間中学だから、いまの日本だと、海外から来た人、年長者もいれば年少者もいるし、戦乱地域から逃げるようにしてきた人もいれば、貧困と戦っている人もいる。
二昔前だと、日本で生まれ育ちながらも、文字の読み書きができない老人が多かったともいう。
そんな人々と接していると、夜間中学という世界しか知らない自分が、とてもこの人々よりも経験値やなんやかや優れているなんて思えない、と。
だから一人の人間として、対等に在りたいと言っていた。
本来、どこであろうがそうあれれば一番いいのだろう。
当然、学校で言えば教えるものと学ぶもの、会社で言えば指示するものと実行するもの、と立場はあるので、その立場での責任は違ってくる。
でも、それが一歩表に出たら、場所と時間が変われば通用しないときもあれば、逆転するときもある。
また、先生は生徒がいなければ成り立たない、上司は部下がいなければ上司に成れない、親は子がいて初めて親になれる。
現に、子がいないわたしは親にはなったことがない。
どちらが上も下もない。
でも、そうはいっても、どうしてもどこかで上下関係を背負ってしまわざるを得ない。
また、それをまったく考えなくなると、人間社会は成り立たないし、個々があまりにも無責任になってしまう。
だから、特に上に立たざるを得ない時は、「人間同士なんだ」ということを自らに口うるさいくらい言い聞かせる必要があるんだな、そんなことを思っている。
なんせ、高所恐怖症のくせに、昇れと言われてもいないのに、すぐに高いところに昇りたがる性質が垣間見える、そんな自分だから。
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