エゴを質とする自我意識で、ことごとく色付け・価値付け──一例が男尊・女卑──するところに差別が生ずることとなる。
わたしたちが自我意識に生きるかぎり、価値付けする差別の罪のなくなるはずはない。
だが、なくならない差別の罪を知らされ痛むところに、差別する罪の身そのままに差別をゆるさない生きかたを賜っていくことが始まる。
池田勇諦
明日から、東京(一部地域を除く)ではお盆だ。
お盆ってなに?
って、だんだんなっているのかなぁ・・・。
そこで、お盆について以前、寺の機関誌に書いたものをコピペして、本日はお茶を濁しておこうと考えたが、その肝心の原稿(データ)がどこにもない😅
いまさら改めて書くのか?
先月、以前とは違う感じの捉え方ということで書いたものはあるので、それは載せるとして、以前のものをいまさら思い出しながら書くにはその気力がない。
前にも書いたけど、低気圧が近づいてくるとわたしは眠くなる傾向がある。
台風のときは本当によく眠れる。
で、いま、昨日と同じように、ガンガンに晴れていた空が、雨雲の覆われだしている、それも雷雲ぽいやつ。
つまり眠い。
だから書けない。
よって、今日のところは、「寺報」先月号に載せたモノをこのあと貼り付けてお昼寝しようと思っている😅
ちなみに、浄土真宗では、仏さんはいつも一緒にいるので、お盆だから帰ってきて、お盆が終わると戻る(仏の国・仏国土・浄土へ)とは考えてない。
だし、迎え火も送り火も、炊いても炊かなくても、ご自由にどうぞ、というのがわたしのスタンスだ。
迎え火・送り火になんら宗教的な意味付けがない、というだけで、「炊いたほうが、お盆〜ん!、って気がする!」というなら炊けばいいし、敢えては炊く必要はない。
きゅうりやナスに足を付けてやるものや、ほおづきや、特別な盆飾りも必要はない。
でも、「あったほうが、お盆〜ん!、って気がする!」というなら、どうぞお飾りください、という感じだ。
では、もしも興味がお在りでしたら、駄文、読んでみてください。
ちなみに、この文章の最後にも書いているが、ここに書いていることが正解ではない。
雷が、鳴り出した、今日もまた。
コロナ禍の二度目のお盆です。
「この一年半、地獄のような、餓鬼道のような、そんな気分だぜ。もう飽きちゃったよ、コロナ禍^^;」なんて冗談半分のんきに過ごしています。
さて、お盆は以前も何度か書きましたが「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」という経典が根底にある法要です。
盂蘭盆経はこんなお話。お釈迦様の十大弟子に神通力(過去現在未来を通して一切世界を見渡す力)が特に優れた目連(もくれん)という方がいらっしゃいました。で、目連さんがある日、その神通力で亡くなられた母親を訪ねていったのです。すると、なんとお母さんは「餓鬼道」というところに落ちて逆さ吊りにさせられていたのです。餓鬼道とは、地獄の次にきついところ、悪行なしたものがいく所と言われています。目連さんはびっくり!人間として生きている間、なにも悪いことをしていない、それどころか周りからも尊敬されていた、自らも尊敬していた母親が、なぜに餓鬼道へ!そんなもんで、焦ってお釈迦様に相談しに行きました。「そりゃ、雨季が終わる最後の日にみんなに集まってもらって、みんなに布施(法を説く)をしなさい。そしたら救われます」といわれ、その通りしましたら、お母さんは救われた、というお話です。で、ここから読み取れるのは、色々あるのですが、以前は、親が子を育てていくには、どんなに素晴らしい優しい人であろうが、餓鬼道に落ちるようなことをしなければ、育てられない。それほどの思いで育まれた自分であることに感謝しましょう。というようなことを書かせてもらったのですが、今回は違った視点から。
目連さんには、お母さんが餓鬼道に落ちてしまって逆さ吊りにされているように見えてしまったのです。それは、目連さんの中にある迷いの目が見せていたのです。実は逆さまになっていたのは目連さん自身であり、餓鬼道に見えたのは、自らが餓鬼道にいたから、すなわち、餓鬼と成ったのは、母親ではなく、目連さんの方だったのです。
地位・名誉・金を得て、上から目線で「お前らは哀れだな」なんて有頂天になって、差別して、なんか全然楽しそうでもなく苛つきながら、全く満たされず、怯えながら実は生きている、なんてことがあります。で、彼が見下していた人たちのほうが幸せに楽しく生活して、満たされて生きている。実は見下している方の彼こそが地獄にいた、なんて感じですかね。で、救われたのは、そこに気づいた目連さん自身であり、餓鬼道だとばかり思えていた母親のいたところは実はお浄土でした、ということです。
ま、いる場所がどこかで、見方も変わるし、自分が地獄に、餓鬼道にいるという認識なしに、浄土をみれば、浄土ですら地獄に見えてしまうことも在り得るということです。また、目連さん目線でこの経典を読むか、母親目線で読むかで読み方も変わります。どちらが正しいということではないのです。どちらも、大事なことを伝えてくれています。大事なのは、自分の都合の良いように読まないようにすることです。基本、何でも、私たちの目は、自分の都合の良いように物事を見がちです。そんな私であるからこそ、気をつけることが大事なのでしょう。
忘れてました、「今日の言葉」との関連性です。
おわかりかと思いますが、最期の段、「私たちの目は、自分の都合の良いように物事を見がちです。そんな私であるからこそ、気をつけることが大事なのでしょう」ということです。
都合のいいようにしか見ないから、人を卑下し、差別し、傷つける。
それをなんとも思っていないわたし、気づいていないわたしなんではないのか、そんな気持ちを忘れてはならないなと。
わたしが会ってきた人々の中での話ですので、非常に狭い範囲でしかありませんから一概には言えないのですが、いわれなき差別を受けてきた方々、傷つけられてきた方々の方には自らの差別心と常に相対してらっしゃる方を多く見受けられます。
その逆に、差別し、他者を傷つけ、自らの正義に酔いしれている方々の方は、皆無と言っていいくらい自らの差別心に気づけないようです。
ここで私の差別心が、自分のものさしで他者を量る根性が、差別し、差別している事実に気づけず、それを指摘されると逆ギレするような人間に対して、
ダッセ!クズが!
と、言っているわけです。
この、「ダッセ!クズが!」と言っている根性の在り場が地獄であり、餓鬼道なのでしょう。